日露関係史(にちろかんけいし)では、日本とロシア(ロシア帝国、ソビエト連邦を含む)の二国間関係の歴史を述べる。両国は、ロシア人の極東進出と日本人の北方開拓の結果、隣国として友好と敵対によって複雑に彩られつつ密接な関係を結びながら歩んできた。
東方進出を図るロシア帝国は、1701年頃に日本人漂流民の伝兵衛らと出会って日本という国があることを知り、1705年にはサンクトペテルブルクに日本語学習所を設置した。1739年に安房国沖に接近したものの、江戸幕府は沿岸防備を強化した為、接触に失敗した。日本もこの頃までには、北方に「おろしや」という国があることを知るようになった。
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カムチャツカ半島を領有したロシア人は、毛皮などを獲る為に千島列島でも活動し、日本も在住のアイヌを通じて部分的には交易を行うなど接触はされていたが、東方に土着したロシア人はヨーロッパから遥か離れたこの地で、物資の不足にあえいでおり、食料物資などの補給のために南方の日本との交易を求めていた。こうして18世紀にはロシアとほぼ隣国の関係となり、日本近海、とくに蝦夷地周辺に『赤蝦夷』と呼ばれていたロシア勢力が出現するに及んで江戸幕府の北方開拓を刺激することにもなった。
ロシアは東方のイルクーツクに、1764年に日本航海学校を、1768年に日本語学校をそれぞれ設置し、日本付近への航海を積極的に行うようになり、1771年には阿波国(あわ違いの可能性もある。安房国か?)にロシア船(「ベニョフスキー事件」又は「はんべんごろう事件」)が漂着する事件もあった。そして1778年、ロシア船は蝦夷地を訪れて直に通商を求めたが、翌年に松前藩はそれを拒否した。
1783年、日本の船頭大黒屋光太夫が伊勢白子浦から江戸へ向かう航海の途上に漂流してアリューシャン列島に漂着した。一行はロシア人によって保護され、1791年には女帝エカテリーナ2世と謁見した。帰国を望んでいた光太夫は、1792年にロシア使節アダム・ラクスマンに伴われて根室に着いた。ロシアは漂着民を届けることを根拠に通商交渉を狙ったが、再度断られ、老中松平定信は周辺を巡視させた。
光太夫によって伝えられたロシア事情は桂川甫周の手よって『北槎聞略』にまとめられ、幕府にとっては鎖国時代における貴重なロシア情報となった。また、海外事情に通じた林子平がロシアの日本近海進出について説く啓蒙活動を行い、長崎出島でのオランダ通詞からの情報などでロシアに関する認識が深まっていった。1799年には松前藩にかわって幕府が蝦夷地の直轄統治を開始し、最上徳内や近藤重蔵に蝦夷地探検を行わせた。
1804年にもニコライ・レザノフが日本人漂流者を伴い、長崎に来航した。このとき幕府がロシアの開港要求を拒絶したため、レザノフは武力による通商開始を決意して蝦夷地の日本側拠点の攻撃をはかり、樺太と択捉島を襲撃したが、彼の病死により中断された。この緊張を背景に、1811年には千島列島を探検中に国後島に上陸したヴァーシリー・ゴローニンが幕府の役人に捕らえられ、その報復として日本の商人である高田屋嘉兵衛が連れ去られる事件が起こった(ゴローニン事件)。このような正式の国交をもたないままの緊張をはらんだ交渉は1821年までに落ち着きを取り戻し、蝦夷地は再び松前藩に返還される。
ロシアの南下政策と日本の近代化
19世紀半ばに入ると、ロシアは農奴解放を求める国内の改革への圧力と、クリミア戦争などのヨーロッパ方面での南下の試みの挫折を受けて、再び極東への進出を重視してきた。1853年、アメリカのマシュー・ペリー提督の浦賀来航(黒船来航)に続くようにロシア使節エヴフィミー・プチャーチンが3隻からなる艦隊を率いて長崎に来航、困難な交渉の末、1855年2月に伊豆半島の下田で日露和親条約を締結した。さらにプチャーチンは間をおいて再び長崎に来航し1858年に日露修好通商条約を結んだ。これにより、下田・箱館・長崎の3港が開かれ、日露の国境は千島列島の択捉島と得撫島の間にひかれて、樺太は両国これまで通り(雑居地)として日露の正式な国交が開始するが、これが北方領土の帰属問題の起点ともなる。1875年には樺太・千島交換条約が結ばれて千島列島は全島が日本領とされ、それまで両国民混住の地とされていた樺太(サハリン)はロシア領に定められた。また、1891年、大津事件で来日中のロシア皇太子が斬りつけられて負傷し、責任をとって外相青木周蔵が辞任している。
この間、プチャーチンによって中国(清)に圧力をかけアイグン条約(1858年)で黒龍江東岸の中国領土を獲得したロシアは、中国分割に参加する列強の一角として、1860年中国から沿海州も獲得しマンチュリア(満州、現在の中国東北地区)への進出を強めた。1895年、ロシアは三国干渉を主導して日本から遼東半島を放棄させると、1896年には清と露清密約を結んで東清鉄道の施設権を獲得、1898年には旅順・大連を租借した。この一連の行動は日本側のロシアに対する激しい敵愾心を巻き起こし、1900年の義和団事変後の混乱に乗じてロシア軍がマンチュリアの全域を占領し、日本が安全保障上確保したい朝鮮領内に陣地を築いて、日本の権益を脅かすに及んで日露の対立は決定的となった。
日本は、ロシアの中国進出を嫌うイギリスと、1902年に日英同盟を結んでその後ろ盾を得ると、1904年に始まった日露戦争に勝利し、1905年のポーツマス条約で満州におけるロシアの権益を奪取した。また、この条約で南樺太が日本領となる。日露戦争の結果、ロシアの極東進出は後退を余儀なくされるが、ポーツマス条約を仲介したアメリカ合衆国の極東への経済的な影響力強化に対してロシアと日本の利害は一致することとなり、数度にわたる日露協約を結んで満蒙(マンチュリアとモンゴリア)における両国の権益・勢力範囲を分割した。ロシアとの協約成立は、ロシアの報復を恐れていた日本政府を安堵させるものであった。
ソビエト連邦建国と日本
日露戦争後のイギリス・日本とロシアの間の歩み寄りの結果、第二次大隈内閣時1914年にはじまる第一次世界大戦ではともに連合国側に参戦することとなって友好関係が続き、1916年には第4次日露協約を結んで、日露両国は極東における相互の特殊権益の擁護を再確認した。ところが1917年、ロシア革命が勃発してロシア帝国は倒壊し、日露協約は廃棄されることになる。
ロシア帝国の解体後、ロシアでは中央でソビエト政権を樹立したボリシェヴィキの赤軍と、それに反対して地方で抵抗を続ける白軍の間で内戦が続く混乱期に入った(ロシア内戦)。極東への共産主義の波及を怖れる日本は、同じくソビエトを敵視する英仏伊と歩調をあわせ、1918年1月に居留民保護を名目としてロシア極東の主要都市ウラジオストクに艦隊を派遣した。さらに内戦によりシベリアで孤立したチェコ軍団救援をアメリカが提案したことを受け、8月12日に日本軍は上陸を開始した。ロシア帝国の消滅を受けてロシア勢力圏の北マンチュリア(外満州)・沿海州へと勢力を広げる野心をもっていたとされる日本は、これにはじまるシベリア出兵に7万人以上の兵士を送り込んだ。
この日本の過大な出兵の結果、内戦への協調干渉を断念したアメリカは出兵を打ち切り、日本も1919年から徐々に撤兵を開始した。しかし、同年には日本軍の守備隊がパルチザンと衝突し、日本側は守備隊と居留民を殺害される尼港事件が起こって犠牲を払う。日本はこの事件をきっかけに、さらに北樺太まで出兵を広げるが、結局ソビエト政権の打倒はならず、1922年にソビエト連邦が建国され、ソビエトが沿海州に置いた緩衝国極東共和国もソ連に併合されるに至る。同年、日本はようやくシベリアから完全撤兵するが、列強の一部がソビエト連邦の承認、国交樹立に動く中で関係回復は進展しなかった。また、シベリア撤兵後も石油・石炭資源の埋蔵が期待されていた北樺太には1925年まで駐留を維持していた。
しかし、隣国であるソ連との関係断絶は日本経済界への打撃も強く、またカラハン宣言に基づくソ連の中国への影響力増大から日ソ国交正常化を行ってこそ大陸での日本の権益を守れるとの主張もあらわれた。そのため日本側も国交正常化に前向きとならざるを得なくなり、1925年1月20日に北京で日ソ基本条約を締結した。
一連の動乱の中で、革命に反発してロシアを出国した数多くのロシア人たち、いわゆる白系ロシア人が日本に大量に流入し、ロシア・正教会の文化を日本にもたらした。
戦時下の日ソ関係
日ソ基本条約が結ばれた一方で、ソ連の主導した共産党の世界組織コミンテルンは、1922年に日本共産党を日本支部に指定してその地下活動を援助しており、日本の当局者を刺激していた。また、1924年には外モンゴリアでソ連はモンゴル人民共和国を成立させ、モンゴリアを勢力圏に置こうとしていた。このような状況を背景にして、日本では軍部を中心にマンチュリア(満州)を極東に押し寄せる共産主義からの防衛線として確保すべきであるという考えが芽生え、これがマンチュリアを確保して日本の生命線とする構想が進められる一因となっていった。このような時代的な背景により、1932年に満州事変が勃発、日本の後ろ盾のもとにマンチュリアを領域とする満州国(満洲帝国)が建国される。ソ連は満州国を承認しなかったが、ロシア帝国から引き継いでいた北満鉄路(旧東清鉄道)を満州国との合弁で経営し、1935年にこの利権を日本の南満州鉄道に売却して、マンチュリアからの撤退と勢力圏の整理を行った。
また、ソ連は極東に済む朝鮮人(高麗人)に「スパイ」容疑をかけて中央アジアに追放する一方で、朝鮮半島やマンチュリアで抗日パルチザン活動を行う朝鮮人・中国人グループを支援していた。赤軍に編入された朝鮮人部隊の司令官が金日成で、そのソ連滞在中の1942年に生まれたのが息子の金正日であるとされている(金日成と金正日が指導者となった北朝鮮の公式発表では別の説明がされている)。
軍事的には満州国の建国以来、満州に駐留する日本の関東軍とソ連赤軍との間で緊張関係が続き、何度かの武力衝突が行われた。1938年にはソ連と満州の国境紛争(張鼓峰事件)、1939年5月からはモンゴルと満州との国境紛争から大規模なノモンハン事件が起こった。両事件では日ソ両軍に大きな損害を出したが、ソ連軍の機甲部隊に大きな損害を与えられた日本側では「敗北」の認識が強く、その後の北進論に否定的な影響を与えた。
1939年9月にヨーロッパで第二次世界大戦が始まり、その直前に独ソ不可侵条約が結ばれるという激変の中、アジアでは日本と米・英・蘭との間での緊張が強まった。そこで、南進論によって英米との対立激化が避けられない日本と、不可侵条約を結んだナチス・ドイツとの関係が常に不安定なソ連の両国は自分の背後を固める必要性に迫られ、1941年4月に日ソ中立条約を結んだ。
しかし、同年6月にドイツが不可侵条約を破棄しソ連と戦争を始めると、7月日本軍は70万の兵士を関東軍特殊演習と称して満蒙国境線に配備したが、南進計画決定により8月に中止された。これによりソ連軍は精鋭部隊を満州国境からヨーロッパに投入し、モスクワ攻防戦などでのドイツ軍撃退に成功した。この時期の日本政府の戦略情報はソ連が送り込んだドイツ人スパイ、リヒャルト・ゾルゲなどが作った秘密情報網によってソ連(赤軍参謀本部)に漏れていた。この組織は10月にゾルゲ事件として摘発され、ゾルゲと日本側中心人物の尾崎秀実は1944年11月7日(十月革命記念日)に処刑された。また、1941年12月には太平洋戦争(大東亜戦争)が勃発し、日ソ両国の開戦の可能性は遠のいた。
その後、第二次世界大戦は連合国側の勝利が確実となり、日本では1944年7月に成立した小磯国昭内閣、及び続く鈴木貫太郎内閣の時にソ連を仲介者とした和平交渉の可能性が模索された。一方、ソ連側は対独戦勝利の後に日本に侵攻し、日露戦争でロシア帝国が失った領土や権益を奪回をする事を狙い始めた。1945年2月のヤルタ会談で、ソ連のスターリンはアメリカのフランクリン・ルーズベルト大統領から対日参戦条件として南樺太・千島列島、その後の北方領土を含む)の返還(併合)などを引き出し、ドイツ降伏後3ヶ月で対日攻撃を開始する秘密協定に調印した。これを受け、ソ連は4月に日ソ中立条約の非延長を通告し、1946年4月で同条約が失効することになった。また、近衛文麿元首相をソ連に派遣して和平交渉を行おうとした提案を拒否し、ソ連軍は大量にヨーロッパから極東へと移送された。日本側では関東軍司令部がこの異変を察知して民間人男子の「根こそぎ動員」による消極的防衛策を練ったが、和平交渉の仲介に期待する中央政府は目立った対応をしなかった。
そして8月8日、ソ連は有効期間が残っていた日ソ中立条約を一方的に破棄して対日宣戦布告を行い、日本側勢力圏の満洲帝国(マンチュリア)、それに日本領の朝鮮半島北部(北緯38度線以北)・南樺太・千島列島を侵攻・占領した。9月2日に日本が降伏文書に調印するまで(歯舞諸島は降伏文書調印後に占領)約1ヶ月続いたこの戦争で多くの日本人が犠牲となり(満州各地の開拓団などの民間人による多数の集団自決事件を含む)、民間人への略奪・婦女暴行事件も頻発した。また、降伏した日本軍(関東軍)将兵は捕虜としてシベリア(一部は中央アジアやヨーロッパ・ロシア)へと抑留された(シベリア抑留)。ソ連側も占守島の戦いなどで大きな損害を出し、スターリンによる北海道分割占領提案は戦後のソ連の強大化を警戒するアメリカのハリー・トルーマン大統領に拒否されたが、対日作戦そのものは勝利に終わり、ソ連はヤルタ秘密協定で示された参戦の見返りをすべて獲得した。
第二次大戦後の日ソ関係
1946年 - シベリア抑留者の帰国が開始される。同年、ソ連は南樺太・千島列島の旧日本領の領有を宣言。北方領土問題の端緒となる。
1948年 - 両国間の民間貿易協定の締結。同年、ソ連に占領された南樺太・千島列島に居住していた日本人島民が北海道に送還され、同地域はサハリン州の一部として完全にソ連化される。旧島民が集住した根室市などは北方領土返還要求の中心地になる。一方、日本国籍を喪失した朝鮮半島出身者は日本への移動を認められず、後の在樺コリアン問題につながる。
1950年 - ソ連共産党がコミンフォルムを通じて日本共産党の平和革命論を批判。その後の武装闘争路線の採用と党分裂へつながる。10月、中ソ友好同盟相互援助条約により、ソ連は中華人民共和国との間で日本の軍国主義復活の阻止を宣言する(-1980年)。
1951年 - ソ連や中華人民共和国も含めた「全面講和」を求める日本社会党を押し切り、日本の吉田茂首相はアメリカを中心とした西側陣営諸国との「単独講和」を決断し、サンフランシスコ講和会議に参加。ソ連代表はサンフランシスコ講和会議に出席したが、ポーランド・チェコスロバキアと共に日本国との平和条約(対日講和条約)への調印を拒否。
1952年 - 4月28日、サンフランシスコ講和条約発効により、日本は独立を回復。ソ連が参加した連合国軍最高司令官総司令部の対日理事会は解消されたが、日ソ間の国交断絶が続く。ソ連は「占領継続」を名目として東京の対日代表部を維持。同年、日本の国際連合加盟申請に対し、ソ連が拒否権を発動して阻止。以後もこの状況が続く。
1953年 - 3月5日、スターリン死去。同日、スターリン重体の情報で世界中の証券市場は混乱し、東京証券取引所も同日の終値が前日比37円80銭安の344円41銭、下落率10.0%の株価大暴落となる(スターリン暴落、現在でも1987年のブラックマンデーに次ぐ史上2位の下落率)。
1956年 - 10月19日、日本の鳩山一郎首相とソ連のニコライ・ブルガーニン首相が日ソ共同宣言を発表し、国交が回復する。また、平和条約調印後の歯舞群島・色丹島の返還を約束する。12月18日、ソ連は日本の国際連合加盟に対し、拒否権発動から支持に転換し、加盟が実現する。12月、最後のシベリア抑留者集団帰国が行われる(注:異説あり)。ただし、ごく一部にソ連国籍を取得し残留した旧抑留者も存在する。
1958年 - ソ連からサーカス団が初訪日。以後、日本では訪日したソ連(ロシア)の各サーカス団がボリショイサーカスと総称され、人気を得る。
1960年 - 9月、サッカー日本代表が初のソ連遠征を実施。以後、日ソ交流協定を利用して日本チームのソ連・西欧遠征が数度行われる。12月、ソ連が日米安全保障条約の延長に対抗して、1956年の日ソ共同宣言締結時に表明した歯舞群島と色丹島の日本返還を撤回。日本はこれに抗議。
1961年 - 日本の横浜港と沿海州のナホトカ港との間に旅客船の定期航路が開設。シベリア鉄道を経由した日本人の欧州渡航に広く利用される。アナスタス・ミコヤン第一副首相がソ連商品見本市開催に合わせて訪日。ゴルバチョフ政権以前で訪日した最高位のソ連要人となる。
1963年 - 日本共産党が米ソ英の3国間の主導で締結された部分的核実験停止条約を批判。
1964年 - 5月21日、日本共産党、党の決定に反し、衆議院本会議における部分的核実験停止条約批准採決で賛成した志賀義雄を除名。志賀らは「日本共産党(日本のこえ)」を結成し、ソ連共産党が支持。日ソ両国の共産党関係は冷却化し、相対的に日本社会党がソ連共産党との関係を緊密にする。10月、東京オリンピック開催。バレーボールでは男子でソ連が優勝(日本は3位)、女子では日本が優勝(東洋の魔女、ソ連は2位)。以後、同競技では男女ともに両国が優勝を争う時代が続く。
1965年 - 大相撲がソ連公演を実施し、モスクワとハバロフスクを訪問。
1967年 - 東京(東京国際空港)?モスクワ(シェレメーチエヴォ国際空港)間の航空路が開設され、日本航空とアエロフロートが運行を開始する。
1972年 - 11月13日、女優の岡田嘉子が1938年の樺太国境越境事件以来、34年ぶりに日本に帰国(1986年にソ連に帰国(ソ連国籍取得済み)、1992年にモスクワで死去)。11月28日、日本航空の旅客機がシェレメーチエヴォ国際空港で離陸に失敗し墜落。乗員・乗客76人中62人が死亡(日本航空シェレメーチエヴォ墜落事故)。
1973年 - 10月、日本の田中角栄首相がソ連を訪問し、レオニード・ブレジネフソ連共産党書記長と会談して日ソ共同声明を発表する。しかし、日本が中国と接近するようになり、両国間の首脳交流は長期間中断する(1998年、小渕恵三がソ連崩壊後のロシア連邦を公式訪問)。アエロフロート、新潟?ハバロフスク線の運行を開始(日本から初のシベリア・極東地域直行便)。
1975年 - 黒澤明監督のソ連・日本の合作映画、デルス・ウザーラが公開され、モスクワ国際映画祭で金賞、アカデミー賞で外国語映画賞を獲得する。
1976年 - ベレンコ中尉亡命事件。MiG-25戦闘機に搭乗したソ連空軍中尉のヴィクトル・ベレンコが日本領空に侵入して函館空港に強行着陸し、後にアメリカへ亡命。
1977年 - ソ連の200海里漁業水域宣言に伴い、日ソ暫定漁業協定が締結。以後、北洋漁業はその更新や安全操業の確保(ソ連による漁船拿捕の防止)等が大きな課題になる。
1978年 - 日中平和友好条約で、中国側が求めた「ソ連覇権主義への批判」が外交問題になる。ソ連への刺激を警戒した日本の要求により、曖昧な表現で決着。
1979年 - 日本共産党の代表団がソ連を訪問し、ソ連共産党との関係を修復。
1980年 - 中ソ友好同盟相互援助条約が失効する(1950年-)。5月、日本は前年に発生したソ連のアフガニスタン侵攻に抗議して、同年7-8月のモスクワオリンピックへの参加ボイコットを決定する。同年、陸上自衛隊の陸将補などがソ連に情報を伝えたスパイ事件が発覚。スパイ防止法制定要求など、日本国内の対ソ脅威論が高まる。
1983年 - 9月1日、大韓航空機撃墜事件が起こる。民間旅客機がソビエト支配下(日本は帰属未定地と主張)の南樺太・海馬島沖で領空を侵犯した後にソ連軍に撃墜され、日本人乗客28人を含め乗員・乗客269人全員が死亡。
1986年 - 5月、8年ぶりの日ソ外相会談がモスクワで行われ、両国関係の改善が始まる。7月、ミハイル・ゴルバチョフソ連共産党書記長、ウラジオストク演説で中距離核ミサイルSS20の削減を含む極東での軍縮・緊張緩和を提唱。
1989年 - ソ連、サハリン州への外国人訪問を解禁。宗谷海峡をチャーター船が運行され、日本人も南樺太や千島列島への訪問が可能になる。日本外務省は国民に対し、ソ連ビザによる北方領土地域への訪問を自粛するように要請。
1991年4月 - ロシア・ソ連の最高指導者としては初めて、ミハイル・ゴルバチョフ大統領が日本を訪問する。8月、ソ連8月クーデターで日本政府はクーデターを非難し、ボリス・エリツィンらの改革派を支持。12月25日、ソ連崩壊。日本は直ちに後継国家のロシア連邦、及び他の旧連邦加盟国を国家承認。旧ソ連の条約・協定などはロシア連邦に継承される。
ソビエト崩壊後の日露関係
1991年12月のソ連崩壊によってロシア連邦がソ連の権益や対外条約を引き継ぐとした為、日本もこれを承認した。1993年にはエリツィン大統領が来日、細川護熙首相と会談した。エリツィンと橋本龍太郎首相は特に親密になり、相互訪問を行ってロシアの先進国首脳会議メンバー入りを支持し、北方領土問題にも解決の道筋を示したかに見えたが、返還交渉はまとまらなかった。2000年に就任したプーチン大統領は対外強硬派であり、小泉純一郎首相とたびたび会談しているが、北方領土問題を有利に解決したい双方の思惑のずれにより、問題解決には至っておらず、1956年の共同宣言以来の目標である平和条約締結の道筋も見出せない。また、日本・ロシア両国は北朝鮮に関する六ヶ国協議の参加国であるが、日本人拉致事件などを理由に北朝鮮に対する強硬姿勢を堅持する日本側と、拉致事件問題では日本側に理解を示しながらも北朝鮮との友好関係維持に腐心して経済支援に前向きなロシア側との立場の違いが表れている。
2006年(平成18年)8月16日、北海道根室市花咲港所属の漁船が歯舞群島の水晶島付近の海域で操業中に国境[1]を侵犯したとしてロシア国境警備局の警備艇により追跡され、貝殻島付近で銃撃・拿捕され、乗組員1人が死亡する事件が発生した(漁民銃撃・拿捕事件)。
また、同年9月ロシア政府は、樺太沖で三井物産、三菱商事、ロイヤル・ダッチ・シェルが出資・開発する海底油田「サハリン2」に対し、環境保護を理由に事業認可を取り消すとの方針を示した。このプロジェクトには以前より、国内外から環境問題に対する懸念が示されていたことも事実であるが、むしろロシア側が国営天然ガス会社ガスプロムの参加など、ロシア側に有利なように生産分与契約の改善等を求めるのではないか、との懸念が浮上している。 実際には、ロシア政府から公式に上記のような要求が出された事実は無いが、もしそのような要求がなされた場合にはサンクトペテルブルクサミットにおける合意に違反するとして、アメリカ等からの懸念も招いている。
日露両国間の平和条約締結交渉は難航しているが、1996年から日本の海上自衛隊とロシア海軍の艦艇相互訪問は1999年の防衛交流覚書の調印につながり、2003年には陸上自衛隊とロシア陸軍との交流も開始された。冷戦の終結により米露関係も改善されたため、ロシア軍による北海道侵攻、逆に自衛隊やアメリカ軍によるロシア極東部(樺太・千島列島を含む)への攻撃は非現実的な仮想となり[要出典]、日本政府は自衛隊の主力部隊を北海道から西日本へと展開した。北朝鮮問題では意見が食い違う両国政府も、他の問題では幅広い協力を行っている。温暖化問題で日本政府が推進した京都議定書については、制定から7年後の2004年にロシアが批准に踏み切り、2005年の発効が実現した。一方、ロシア国内で続くチェチェン問題については、日本はサミットの共同宣言などでテロリズムへの対抗を打ち出し、チェチェンの武装ゲリラに対するプーチン政権の強硬策を支持している。
また、ペレストロイカやエリツィン政権で混乱したロシア経済が、原油価格・天然ガス価格の高騰にも助けられてプーチン政権下で急成長を開始し、ロシアが新興経済発展国のBRICsの一員と見なされるようになると、日露間の経済関係も再び拡大に転じた。2006年の日本からの対露輸出は前年比で65%増、ロシアからの対日輸出は13%増となった[2]。日本企業のロシア進出は、従来の石油・木材などの資源産業にとどまらず、同市出身のプーチンの意向を受けたともされるトヨタ自動車や日産自動車のサンクトペテルブルクへの工場進出などもある。一方、2007年にはロシアの証券会社が日本に支店を開設し、日本の資金はロシアの株式市場へ直接投資できるようになった。また、特にモスクワでは「日本ブーム」と呼べる状況が生まれ、村上春樹・三島由紀夫・吉本ばなななどの作家の作品がロシア語に翻訳されて読まれ、各種世論調査におけるロシア国民の対日感情は良好な状態で推移している[要出典]。
^ 歯舞群島のロシア支配を認めていない日本側の見解では実効支配境界線となるが、これが事実上の国境として操業条件などが定められている。
^ ロシアNIS貿易会資料より。日本の輸出額は8213億円、ロシアの輸出額は7744億円で、日本の貿易総額に占める比率は日本の輸出・ロシアの輸出(日本の輸入)ともに1.1%。なお、同時期に日本円が対米ドルで6%の円安となっている点に留意する必要がある。